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音楽誌等に色々書いてる石川貴教のブログ。

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Far East



ドン・ドラモンドの名作「Further East」
ソウル・ジャズ・レコーズからシングルが再発されています。




この曲の元ネタは1944年のヒット・ミュージカル映画 ”若草のころ”で
ジュデイ・ガーランドが歌っていた「Trolley Song」。
コクソンがドンに「Trolley Song」をカヴァーしてくれとリクエストして
できあがったのがこの「Further East」。

ミュージカル・ナンバーやスタンダードを換骨奪胎してフレッシュかつアーティスティックに
改編するのはモダン・ジャズのミュージシャンのお家芸ですが、
このジャマイカン・ヴァージョンも中々どうして大したものです。
BPMも、コードも原曲とは全く違い、一聴では「Trolley Song」とは判断しがたい
斬新で大胆な構造、作曲と演奏。



スキャタライツの主要メンバーの多くは、アルファ・スクールで
クラシック、マーチ、カリプソの演奏、楽理を厳しい指導の下で学んだ面々。
先生はジャズに関しては肯定的でなかったようですが、生徒はみなジャズが好きで
後年、ジャズ・バンドひいてはスカのバンドに参加、生計を立てて行ったアーティストが
数多いのはご承知の通り。
軍隊の軍楽隊、マーチング・バンドを経由して業界に入ったジョニー・ムーア、
レスター・スターリングのような人もいます。
そんな中で、ジャズのビッグ・バンド”エリック・ディーンズ・オーケストラ”に
16才でスカウトされ参加した早熟の天才トロンボーン奏者がドン・ドラモンド。
アルファ卒業生、スキャタライツ一派のホーン奏者の中でいち早く
(もしかすると当時、唯一)ジャズの進化系、モーダルな演奏に反応した
アーティスト、ともいえるでしょう。







【 2017/10/26 10:09 】

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Cuba Doll




1950年代にカリフォルニアを拠点とし、活躍したロイド・グレン。
ピアニスト、アレンジャーとしてT・ボーン・ウォーカーなどのヒット曲にも多数参加。

ソロでも、「Old Time Shuffle Blues」(1950年)がビルボード・リズム&ブルース・チャート3位、
「Chica-Boo」(1951年)が同チャートで1位を獲得。

ジャマイカでは、前述2曲より「Cuba Doll」の方が、ヴィンテージ・コレクター、
セレクターの間では大変ポピュラー、定番です。
オフィシャル盤でない7インチ・シングルもジャマイカでは
複数のタイプがプレスされています。

本国アメリカ盤、45回転7インチシングルはHollywood Recordsから出ていますが、
2種類あり(どちらもレアーですが)ひとつは片面2曲入りのもので音圧、レベルが低く、
もうひとつの片面1曲で「Cuba Doll」だけ収録のものはSP盤からの盤おこしです。
ヒス・ノイズ入っています。
なので、音が良いのをご所望なら78回転SP盤(Swing Time レーベル)がベスト。








【 2017/10/11 10:25 】

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What About Me






先回の続き
マーナ・ヘイグさんはイングランドで歌手としての活動を本格化させ、
イングランド、イタリー、オーストリア、ベイルートなどの国をツアーで回ることに。
高級ラウンジ、ナイト・クラブへ出演する旅回りも多く
そのため、スーツ・ケースのパッキングが物凄く手早く出来るようになったそうです。

そんな多忙な生活に疲れを感じた彼女は毎冬(ジャマイカの観光繁忙期。
少し涼しくなりますからね)6週間くらいの期間、ジャマイカに帰郷するようになり、
その合間にコートレイ・ホテルでソニー・ブラッドショウと共演。
後の亭主とのファースト・コンタクトを果たします。

そういった(彼女が休暇の合間に披露した)パフォーマンスの噂を聞いたコクソン・ドッド。
コクソンは、オーチョ・リオスの両親のところにいた彼女にレコーディングのオファーをします。
快諾した彼女は、キングストンのスタジオ・ワンに来て録音を開始。1972年ころのお話です。
こうして、アルバム「Melody Life」が出来上がったわけです。
彼女がジャマイカ人ミュージシャンと仕事をしたのは、これが初めて。
レゲエを歌ったのもこれが初めて、という初物尽くしのレコーディングとなりました。
(このアルバム「Melody Life」アナログLPは2000年以降にプレスされたものは
曲数が少なく、盤質が悪いため、1991年ころにプレスされたものがおススメです。
オリジナルは希少なうえ、バカ高いです)




その後、彼女はジャマイカでの音楽活動を継続せず、イングランドに戻ります。
が、1973,4年ごろのイングランドのサパー・クラブ、ナイト・クラブ界隈の音楽シーンは
大きく変化していて音楽活動を続行すべきか悩むことに。
その当時、ディスコ、ポップスの波が彼女の主戦場にまで押し寄せてきていて
ジャズやスタンダードを歌いたい彼女は毎冬のジャマイカ滞在の期間が
ますます長くなっていきました。
そして、1975年にジャマイカに戻ることを決意。ロンドンを去ります。

1976年には、ジャマイカで行われた「サウンド・カリビアン・フェスティヴァル・オブ・アーツ」
にジミー・クリフらと出演。そこでのパフォーマンスが
「ソウルとシャーリー・バッシーの間を行くスタイル」(言い得て妙ですね)
と評価され、またこの時にカリビアン・ソングの古典にも初挑戦。
「ジャズやスタンダードなどのショウ・ミュージックしか、私は歌ったことがなかったので
JBC(ジャマイカのラジオ局)のライブラリーに
行ってカリビアン・フォーク・ミュージックを勉強した」そうです。
そして、彼女はハイチの「Chou Counie」(ジャマイカでは「Yellow Bird」というタイトルで
激ポピュラーな歌のオリジナル)とイングランドでもポピュラーだった元はスパニッシュ・ソング
の「Feelings」をチョイス。ヒルトン・ホテルのバンド・リーダーだったラルフ・ホールディングの
オリジナル・ソング2曲を加え、ソニー・ブラッドショウ監督のビッグ・バンドで披露。

それからは、JBCラジオとテレヴィ番組のレギュラー出演を経て、自分の番組も持ち、
ジャマイカ・ミュージック・フェデレーションの秘書に。
1995年にブラッド・ショウさんと結婚。二人は二人三脚で1991年から開催された
非レゲエの「オーチョ・リオス・インターナショナル・ジャズ・フェスティヴァル」を運営。
2009年、ブラッドショウさん他界後は彼女がディレクターとなりました。
2003年にはチナ・スミスらとレコーディング。2014年には「Melody Life」をリ・レコーディング。
今も健在で、心は変わらず「ジャズ・シンガー」。
いわく、
「天才的でなくたっていい。でも、出来うる限りの、最高峰レヴェルの
クオリティ・ミュージックが私は好きだ」






【 2017/10/02 13:38 】

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